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「かったるい展覧会に便器を展示してやるッ!」
黒沢明の「七人の侍」が今見るとパターンなのと同様、
今なら誰でも思いつきそうな凡庸なネタである。
しかし1917年のニューヨークではそうではなかった。
何しろそれまで、誰もやったことのない暴挙だったのだから。
コロンブスの卵。オリジナルの輝きって奴だ。
犯人はマルセル・デュシャン。
展覧会の役員でもある彼は、ある種の抗議の意思とイタズラ心で
展覧会に小便器を展示した。
自作自演的に騒ぎを煽り、くだらねーあー伝統芸術くだらねー、と
自己主張する事がそもそもの狙いだったらしい。
今で言うハプニングって奴だ。
ところが話はそこからだ。
「作者」によって作られた訳でもない既製品がアートとなり得るか?
魂はこもっているのか?便器はアートたりえるか?
芸術界を巻き込んだ熱い論争になってしまったのだ。
Duchamp.jpg
問題の便器

作者の愛がこもっていない既製品・・・この不毛さにデュシャンは
惹かれていった。そして数々の展覧会に既製品を出品し始める。
櫛、タイヤ、ショベル、ビン乾燥機・・・。
そこには既製品のフォルムに託した、デュシャンの「詩的主張」があると
見なす向きもある。
しかし「便器」から一年後にパトロンの依頼で描いた油絵が、
カラーチャートをそのまま模したような、恐ろしく退屈な代物だという事実。
ほーら全色揃ってるぜキレーだろぉ?と言わんばかりの当てこすり。
彼は「美的表現」の為に何かを作る事に飽きていたのだ。
「画家ってやつはマンネリでね。朝起きるとテレピン油の匂いが恋しくなる。
 で、あーだこーだコネ回してると一丁上がりって寸法さ」
そう放言し、現代芸術は精神性ゼロの単なる目の愉しみ、と喝破し
これでも食らえと量販店で買った日用雑貨を展覧会に送りつけ、
新作をねだるパトロンに色見本を突きつけるチャレンジャーぶり。
そしてデュシャンは、モノに独特の意味を持たせつつ
美的でもダダでもない、苦渋で微妙な表現の世界に踏み込む事になる。
コンセプチュアルアートの始まりだ。
それすら飽きたデュシャンはやがて商売やチェスの研究に没頭し
忘れられた人となっていく。でも実は・・・。

カッコいい。ほんにカッコいい。死霊のえじきのバブと並ぶマイヒーローだ。
DAY OF THE DEAD bub

たったひとつの言葉、モノ、リアクション・・・最小限の物事で
ズバリと自分を表現する才能に空缶は憧れる。
バブが何を表現したか? 映画史上一番痛快なFuckyou.Sirだ常考。
いや言ってる。喋れんけど絶対あいつ心で言ってるねんて。俺には聞こえるんや。
それはともかく。
もちろんデュシャンの表現はストレートな自己表現ではない。
それでも大きなレベルで言えば彼があの世で「やってやったゼ」と
ニヤニヤしているのは間違いない事であってだな。
そりゃーデュシャンだって人間スよ。
内なるエモーションなしに行動は起こせないでしょ。
その「秘めたるものに」空缶は激しく惹かれる。
そしてそれを表す巧妙な手口にも。
定型的ではあるがパンクだぜ!と締めておく。たぶん間違ってるが。
duchamp1948.jpg

純粋な機械的技法で作品を作ったレーモン・ルッセルですら
「有名になりたい」という分かりやすい野心が内面にあった訳で、
それを思うと、メカニカルで且つエロな世界をヨハネよろしく提示して
去っていったデュシャンという人物の割り切れなさは不可解で魅力的だ。
「男と女」の神話をこのように扱った人物が他にいるだろうか。
ダンディズムとストイシズム、そしてイタズラ小僧ぶりの混交。
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