上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
空缶の極私的な海のイメージは「どこかと繋がっている」ものだ。
太平洋を見ながら、この向こうにウェストコーストがあるんだと
胸高鳴らせるような感覚。
そしてソラリスの海はどこにも繋がっていない。惑星全体が海だから。
でもそれは空缶にとって失望ではなく、未知の何かに繋がっているという
抽象的で静かな興奮をもたらす心地よいものだ。
そしてそこには恐らく辿り着けないだろうという,下衆に言えばマゾ的な快感も。
海の向こうの「未知の何か」を明示的に表現したのが諸星大二郎のマッドメン。
ラストの地下の海の,暗鬱だけど一種掻き立てられるような期待感。
あれはあれで大傑作だが話はソラリスである。
レムの知的な筆致と,インドア派なら憧れずにおられないステーションの描写の
見事な一致。
頭脳派が鬱鬱ダラダラと時を過ごすあの場所全体がまるで図書館のようじゃないか。
時には不気味で時には荒々しいソラリスの海が丸窓越しに「外」として捉えられ
寝たいだけ寝ていられる怠惰な空間。
Solaris2.jpg
本の虫ならきっと誰もが学生時代の図書館の神秘と憂愁を知っている。
友達と交わすしょーもない哲学談義にも疲れ、窓の外では陸上部の躍動感。
そんな物憂い図書室の午後のようなステーション。
エアダクトの紙の仕掛け,味もそっけもない電灯の明るさが,満たされない事、
怠惰であることの不吉さを告げている。
激しい頭痛を抱えて徘徊するクリスに注ぐ窓越しのソラリスの陽射しの非情な事。
そして100年前から無意味に蓄積されてきた書物の山と具現化した苦悩の種。
安全圏内から覗く大いなる異邦の海にこそ解決策・・・答はある。
でも何の? どんな答えが・・・?
学生時代の,行き場のない正体不明のメランコリーがどうにも思い出されて仕方ない。
こういう時「運動しろよ!」と言うのはまったく正鵠を得つつもヤボというもので。
浸らせてよ・・・ という心地よくささやかなデカダンス・・・が図書館にはあった。
創作活動に携わる人たちのコロニーでレムはこの小説を書いたそうだが
あるいは同じメランコリーを感じたりしていたのか。

言うまでもなくハリーの存在感もこの小説のキモだ。
クリス主観の産物で怪物性を秘めているとは言え、初期の虚ろさも
後半の喜怒哀楽の具合もえらくリアルな「生身の女」として描写されている。
恋女房を演じ,酔ったスナウトに小腹を立てているあたりが無性に可笑しくて哀しい。
恐らくはサルトリウスこそが正しいのだ。それすら過剰適応であり
「踊らされている」振る舞いではあるけれど。
では装置としてのハリーの人間性はどこへ持っていけばいいのか。
結局、複製の情報源となったクリスが胸のうちで回顧してやるしかないのだ。
クリスの回想から生まれ回想に帰っていく存在。
しょせんコピーと明示されればされるほど悲しいのは誰か。
クリスと読者である我々だ。
これは結局、読んでいるワレワレのドラマなのだ。

Наталья Сергеевна Бондарчук
ハリーを演じたナターリャ・ボンダルチュク
可憐ではかない役どころだったが,どこかで読んだか聞いたかした話では
父親がモスフィルムの映画監督なのをいい事に,
けっこうなお局様ぶりでタルコフスキーを悩ませたらしい。
ああハリー・・・
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

-

管理人の承認後に表示されます
  1. 2013/04/18(木) 11:49:03 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。